第1回「黄色い安全靴」

2012年より男女共同参画室の初代室長を務められた、岡田往子先生が3月でご定年を迎えられました。原子力研究所での研究の日々、2009年の文部科学省科学技術振興調整費の採択、男女共同参画室の前身である女性研究者支援室の立ち上げ、そして現在のダイバーシティ推進室に至るあゆみについて、お話していただきます。

私が旧武蔵工業大学原子力研究所に技術員として就職したのは1981年。原子力研究所は男性教育系職員7名、女性の助手1名、女性技術員2名、事務職員男性1名、女性2名と工学系には珍しく女性の多い環境でした。助手の女性と技術員1名は原子炉運転員、私は放射線管理と分析業務が分担でした。
女性たちは主に月曜日から金曜日の原子炉5時間運転業務を現場でこなす作業でした。作業は管理区域から出入りしますが、当時男性用の黄色い安全靴は準備されていたのですが、女性用はなく、赤い薄っぺらなスリッパでした。3階の原子炉に駆け上ったり、鉛遮蔽を運んだりしていました。決して、安全ではない環境でも女性の多くは「しょうがない」と淡々と仕事をこなしていました。

川崎市王禅寺にある緑豊かな原子力研究所

1985年7月原子炉燃料棒の交換作業
右奥が原子炉方向
使用済み燃料棒を取り出し、移動容器に設置し、空間移動時に遠隔から操作している様子。力仕事以外は男女協力して作業を進めました。前列左が岡田先生

こんなことひとつとっても、女性側から要求をしなければならない時代です。もちろん悪気があってのことではなく、「男性中心の長い間の習慣」「見えないバイアス」で見過ごされて来たのだと思います。私のような、いわゆる「うるさい女」は、そういった場面で必ず、要求します。この辺から「なぜ?女性は下支えの仕事多いのか」「なぜ?それでいいと思っているのか」「女性の能力を認めてほしい」などという思いが強くなって行きます。

一方、その頃の世田谷キャンパスは、工学部のみの単科大学で、電気科に女子学生が入ったなどと、男子学生が大喜びしている頃でした。

建築学科は以前から女子学生が入学しており、初期の頃は女子トイレも旧1号館にしかなく、苦労して学生生活を送ったとした記録が残っています。1980年代の女子事務職員は今と変わらない人数だったのではないかと思いますが、教養の数学の故佐藤シズ子先生が女性教員の第一号だったと思います。その他、前後は定かではありませんが、数学の助手、化学の助手、体育の助手、女性技術員は機器分析室1名、通信系学科に1名いらっしゃったと記憶しています。その後、英語に女性教員が入ります。1986年、男女雇用機会均等法が施行されます。ということは、その頃の若い私が思っている以上に、男女の採用・均等な機会・配置・昇格・福利厚生・解雇などに差別があったのでしょう。さて、本学はどうだったのか、見えないバイアスを取り去る努力は行われてきたのか…次回に、続く